分析と総合
分析とは「分けて見て考える」ということ、総合とは「集めて合わせてまとめて考える」ということです。専ら、分析と言えば、「成分分析」といったように、いくつかの諸要素に分類したり、分解したりするイメージが強いです。また、総合と言えば、多面的に物事を考えたり、共通点や相違点を列挙するイメージが強いです。
分析と総合を繋げる鍵は「観点」であると言えるでしょう。観点とは、観察・考察するときの立場や目の付け所ということです。つまり、どのような見方で分析したり、総合したりするかということです。数的思考力はその見方を支える1つの力になるのです。
思い出すこと
私が小学生の時、疑問に思っていたことがありました。それは、「長方形の面積=縦の長さ✖️横の長さ 」はどうしてなのかなぁということでした。
居残りして課題をすることに世間がざわつくような余裕などなく、余暇に人生を費やすという意識もない時代でした。人としての使命感を持ち、価値観の多様化などには目もくれないで、隣近所になった者たちで支え合っていこう、商売で繁盛して豊かになった人たちは周りの人たちのお陰なのだから奉仕しようという精神的な思想のある時代でした。
もちろん、「計算ドリルの宿題をしてくる」という、みんなと一緒のことができなかった私は、視聴覚室で一人、居残りをして問題をすることになったのでした。しかし、どうしても分からないのです。どうして縦✖️横で面積が出てくるのかがです。計算の仕方を覚えて数値を当てはめればそれでいいわけですが、線で囲まれた面の広さがどうして線の長さどうしの掛け算で求められるのかが当時全く分かりませんでした。
教科書の内容を読んだり、計算する力を積み上げてこなかったのですから仕方がありません。また、それをなんとも気にせず、逆に特別扱いされたという気持ちにさえさせました。まだ本気で問題に向き合うような段階にはなかったのでしょう。周りのことを見る目が狭く、それが当たり前の段階であったのでしょう。結局は、後ろの答えを先生からもらったのか、かしてもらったのかどうかは今となっては記憶にありませんが、答えを写してお役御免となったのでした。
新たな考え方を受け入れられるタイミングは、学習の習慣や関心・意欲といった態度や基礎となる学力の素地の習熟度によって違うのです。そのタイミングを逃したまま同じように身につける教授法で進むわけですから、いわゆる「落ちこぼし」となって「落ちこぼれ」と呼ぶようになるのです。これをマイナスなことと意識するか、そうでないかによっても、またどちらによっても感じ方は人それぞれでしょうが、当時の私はなんとも思っていなかったということです。
もちろん、その分、後になって、社会の仕組みに自分を合わせて入っていこうとした時はずいぶん無茶なことをしたのでした。ただ、やはり、人にとって本質的な事については今も考え続けています。
数的思考の中には人の生き方をシンクロさせる力があり、一方で科学技術の応用への倫理的コントロールを常に監視することで、心情を豊かにするものであると信じています。
遠山啓先生による「分析と総合」とは
『遠山啓のコペルニクスからニュートンまで』という書物の中の「分析と総合」という論稿の中で自らの考えを述べています。そこでは、「分析・総合することによって、もととちがったものができます。いかなるちがったものをつくりだすか、というところに想像力が働く余地があるのです。」「人間がものをつくる働きというのはだいたい分析・総合ということをやっているといってもいいです。」と述べています。
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